第四章 ジェイムズ経験論の意義

第二節 知覚の哲学における倫理的思想の特徴と
      ジェイムズ経験論

 前節において、部分的にではあるが、われわれは経験論が認識論においてよりも道徳論において様々な見解と発展性をもっている点を指摘した。そこで本節においては経験論とりわけ知覚の哲学における倫理の問題ないしは道徳論に直接目をむけ、その一般的特徴をあきらかにする中で、ジェイムズ経験論にみられる倫理的思想の特徴をうきぼりにするための作業にとりかからねばならない。
 過去においてわれわれはジェイムズ哲学といわれるものが、ある種の道徳論であり、その内容が個人道徳の重視という形で展開されてきていることをあきらかにしてきた。しかしながらそこではジェイムズの主張に対する批判的考察がなされていなかったし、それ故にわれわれはジェイムズの言い分だけを知ったのにとどまったにすぎなかった。それではわれわれが、再びこの問題をとりあげる際にいかなる立場にたたねばならないのであろうか。それは認識論においてはジェイムズは伝統的経験論を批判し、もって根本的経験論を提唱したが、彼の倫理的思想は依然として伝統的経験論の倫理的思想の典型的なものとして位置づけられねばならないということである。いいかえればいかにジェイムズが伝統的経験論を批判したところで、彼の倫理的思想は経験論的な倫理的思想以上のものにはなりえないということである。
 それでは経験論とりわけ知覚の哲学にみられる倫理的思想の特徴とは一体どのようなものであるか。われわれはその具体的省察に入らねばならない。その前にわれわれはそもそも道徳ないしは道徳的事実とは何であるかをあきらかにせねばならない。かかる追求は実は結論の出にくい多様な見解をもたらすのであるが、一応のめやすとしての基本的事実をあげれば、それは、マクグリンとトウナーが指摘するように、次の四つに整理されるのではないだろうか。
 一つは、われわれは善い行為と悪い行為及び正と不正を区別している、という事実である。二つは、われわれは正と善とよばれる行為をし、不正と悪とよばれる行為を避けねばならないという責務の意識を経験している。三つは、われわれはどのような仕方で行為するかを選択する際に、自由の意識を経験する。四つは、われわれは、自分自身の行為に対する責任の意識を経験し、また他人もそれ自身の行為の責任をもつべきだという気持をもっている。
(一)
 さて経験論においてはその論理的構造からして何が善く、何が正しいかについてのアプリオリな基準のないことは当然である。そのことは善及び正が個々の具体的存在の中に認められ、且つその存在を認めるのは人間の感じる心であるというテーゼを導きださざるをえない。それ故責任の意識ないしは自由の意識は感じる心の満足の程度によって、あるいは、ジェイムズ流にいえば、心のやすらぎの具合によって、自己の行為を肯定し且ついつくしむ心の状態の保証を意味することになりかねない。いいかえれば四つの基本的な道徳的事実に対する経験論的なとらえ方はきわめて主観的なものといわれなければならないのである。
 にもかかわらず経験論は感じる心の依拠による主観性が人間主義的なものの代表としてあらためて考えなおされるという思考のプロセスを採用する。つまり感じる心の主体とは人間である故をもってその人間はプロタゴラスのいう「万物の尺度」としての権威をもっているものとして考えられてくるのである。だがわれわれは感じる心の主体が人間である故をもって、人間を万物の尺度とするいかなる根拠をももっていない。なぜならば、そもそも感じる心を所有する人間という言い方によってすべての人間の特性が説明せられているわけではないからである。
 その意味では経験論はある種の傲慢さをもっている。即ち心の気ままさが、まさに感じている状態にあるという事実でもって、その感じの対象を支配すると思いこみ、逆に感じられぬ対象を不可知の世界にとじこめてしまうのである。これは認識の起源が感覚にあるという考え方からきており、そして可感的対象のみを唯一の実在とせざるをえないというドグマの形成へと発展した結果なのである。
 かかるドグマが倫理的には感情倫理説と表裏一体の関係にあるといわれるのは当然である。というのはそもそもそこでは善及び正を是認するのは感情ないしは情念であるからであり、感情ないしは情念は自らの都合のよい(あるいはその本性に従った)倫理的見解をうちたてるからである。いいかえれば善及び正が正しく認識されるということは重要でなく、それらが感情ないしは情念の本質的働きによって是認されるということが重要なのである。
 この考えは実は善及び正が客観的なものとしてははじめから認識されないのだということと同義である。それ故に、たとえば快楽の追求を倫理的行為とするヘドニズムや、善及び正を便法的なものとする功利主義、あるいは善や正の本質の問題よりもそれらのもたらす成果やそれらを知る方法に重点をおく考え方が倫理学的対象を構成するものとして考えられてくるのである。
 かかる倫理学説は感情倫理説を基本にしており、道徳的区別の能力を感情ないしは情念の中にしか認めておらないので、きわめて自然主義的な特徴をもっている。従ってそこでは倫理的判断の客観性は否定されており、感情ないしは情念の生き生きとした活動がただ単に賛美されているにすぎないのである。
 このことからわれわれは何を導きだしえるのであるか。それは、「前もって独断的につくられた倫理哲学のようなものは可能ではない」
(1)とするひかえめな主張の中に経験論的論理思想の特徴をみるか、あるいは倫理的判断はもともとわれわれの経験に対してなされるのだから主観的なものなのだというひらきなおりによって自らの主張を正当化するかのいずれかである。
 この経験論的倫理説のこのような態度ははたして許されるのであろうか。もしわれわれが倫理的行為を単なる感覚器官の選択機能の結果以外の何物でもないという考えに徹するのであれば許されるかもしれない。なぜならば感覚器官にとって善とか正は無縁の存在であり、感覚器官はただその本性に従って機能しさえすればよいから、それは倫理的判断の客観性を要求する必要をもたないからである。
 ところでこの経験論的倫理説はかかる考え以外に核となる考えをもっているかどうかについていえば、誰も確信をもって答ええないのではないだろうか。それ故に倫理的な事実とは究極的には自然的事実の特殊ないい方に他ならない、といわれうるのである。なるほど前述の如く経験論的倫理説は道徳の基本的事実について考慮しはする。だがかかる倫理説がいかに道徳の基本的事実を認めたところで、この信奉者にとっては、善、正、自由、責務は、せいぜい便法的に存在意識が認められる以上の性格をもってはいないのである。そしてこの傾向は経験を知覚という素材でもってとらえなおそうとする場合には、一層強くあらわれるであろう。
 そこにおいてわれわれの意識的経験のみが問題となっているのであり、従ってレーニンの言葉によれば完全に「主観的観念論」
(二)的な世界が構築されており、善、正、自由、責務は実在ではなく、観念の対象であり、せいぜい人間の感覚的満足の便宜を払う一つのめやすにすぎなくなってしまっている。もしこれらの四つが存在していたといても、それらはわれわれの精神の内的状態の中にあるのであり、われわれが経験という生の一つのあり方を通してえるところの実在観に従ってあるのである。
 このことは、ジェイムズにおける次の言葉即ち「意識的分野プラス感じられ、考えられたその対象プラスその対象への態度プラスその態度が属する自己の感覚」がわれわれの経験のなんたるかを示す最も原初的な形をあらわしているところからも察知せられる筈である。
 さてわれわれはこのよい例をまたもやヒュームの中にみるであろう。ジェイムズによればヒュームは経験論的主知主義者として批判されている。しかし彼らの倫理的見解においては経験論者特有の共通性があり、従って本節のテーマに限れば両者の認識論上の差異を除けば、われわれはヒュームの見解の批判をもって、ジェイムズの倫理思想批判と経験論的倫理思想の批判にかえていると考えてもよいであろう。
 そのヒュームの『人性論』をよむとわれわれは次の注目すべき言葉に遭遇する。一つは「野獣も人間同様の思想と理性が授けられている」
(三)であり、二つは「理性は…われわれの精神の中の驚くべき、理解しがたい本能にすぎない」(四)である。この二つの言葉は、字句上からは理性と本能の同一視であるが、実はわれわれはかかる言明から理性ないしは本能がともに自然的機能であり、同一の自然的役割をはたしているという考え方をヒュームが重視しているということをみなければならない。そしてここから一般には、経験論における倫理思想は、自然的機能の働きの重視によりなりたっている点が示唆されるべきであろう。
 このことは端的には、超自然的性格を有するとされる理性の存在の否定、及び自然的本性としての情念の存在の積極的評価につながり、それ故にこれらの前提にたって、経験論は様々な倫理的事実を考察しようとしていることを示しているのではあるまいか。ここに人間的活動の一つの指導原理が奇妙に導出されてくる。いわば人間の動物化、人間の生物的性格の強調において、いいかえれば、生に対する意欲を行動の原理にするという形で、人間の倫理性があきらかにされてくるのである。
 ヒュームによれば人間的活動の指導原理の源は情念より発せられる。しかし逆に情念そのものが人間的なものであるかどうかは疑問である。なぜならばヒュームにとれば理性や本能と同様情念もまた自然の産物であり、自然的現象の一つとして行動を行うのであって、それ故にわれわれがある意味で人間と区別している動物の行動のメカニズムと同じ機能を情念はもっているといわれうるからである。
 するとヒュームはわれわれの人間性の存在を自然的作用の基準に従って確証しているとも考えられるのである。これはわれわれが可感されている対象をもっているということが、実はわれわれの精神の主観的機能の働き以外のなにものでもないということと同じである。精神の主観的機能が働いているということでもって、われわれは人間的に行為していると考えるべきではないのである。
 ここにヒュームのみならず知覚の哲学を信奉する人たちのおちいる大きな落とし穴がみられる。彼らはあるがままの事実をみることによって、現実には彼らにただみえるがままの事実をみているのである。そしてそのことによって彼らに映じられている対象はあたかも彼らの主体性によって現出されているかのようにうけとられる。しかしそこで精神の主観的機能がもたらすものは、比喩的に言えば、意味もわからずにくちばしを動かしている鸚鵡の行為のようなものであり、可感される対象の本質ないしはそれの客観性はあきらかにされえないであろう。
 可感される対象の本質ないしはそれの客観性の把握はわれわれが倫理的行為をする場合には重要である。なぜならばわれわれが倫理的行為を行う際の自由の意識とはかかる把握なしには存在しないからである。しかるに単に精神の主観的機能にのみ依存する場合、われわれはみえるがままの事実に単に対処する(たとえば区別、比較、判断する)ことが、倫理的行為をも含んでいるように錯覚するのである。このことはたとえば、徳、正義、善という言葉が使用されているからといって、許されるものではない。というのはこれらの言葉は、人間存在の反応の仕方に価値観を求めているのであって、その意味では、人間本性のある欲し方を示しているのであって、人間それ自体のあるべき姿を示しているのではないからである。
 さて情念を人間の活動原理とする経験論とりわけ知覚の哲学における倫理思想の特徴は、一言でいえば、道徳生活と人間生活(厳密には生物的生活)との同一視にあるのではないだろうか。あるいは人間生活において本性としてあるところの精神的及び、肉体的機能が十全的に働いていることが道徳的であるといわれうるのであり、又十全的に働きうるように努力することが道徳的に適っている行為であるといわれうるのではないだろうか。
 しかし大半の道徳哲学者が認めるように道徳的生活と人間生活はあきらかに異なっている。それは常識においても道徳生活が一つの理念性をおびているという考えからも判断されているのである。しかるに情念を唯一の活動原理とする経験論的倫理思想においてはかかる区別はどう考えられているのであろうか。表面的にみれば、その経験論的倫理思想は道徳生活を人間生活から区別しているようにみえる。しかしこの場合の道徳生活は明確に一つの理念的対象であるというよりは、人間的本性としての情念がなんら障害なく働きうる状況をもった場をさし示しているようである。
 その際情念の対象とはなんであるのか。いうまでもなく、それは生への意志であり、卑俗には感覚器官の満足である。従って情念の対象は一種の根なし草のようなものであり、いわんや理念的対象といわれるものではない。かかる情念は自然的存在としての人間にとってはきわめて現実的な存在であり、且つなんらかの結果をともなわないではいられない有効性をもっている。又情念の内容は多元的であり、変化がある。そして何よりも重要なのは情念は他のいかなる人間本性(たとえば理性)によってもその存在を否定されるのではなく、他の情念によってのみ否定される点である。しかしいかなる情念であろうとも、それが対象とするところのものは、決して理念ではなく、現実である点は忘れられてはならないであろう。従ってヒュームの考える如き情念といえども、現実及びその状況に支配されるそれであり、情念自体が自律的に働きうるとはいわれえないのである。
 それではかかる情念の働きに依存する道徳生活がなぜに人間生活と区別されるのであろうか。ここに至るとわれわれはある種の不可知論におちいる。従って経験論的倫理説おいても道徳的正や善がはじめにおいて前提されているとしかいいようがないであろう。即ち、道徳的事実は理解されないけれども、ある仕方で存在している、といわれざるをえないのである。かかる告白は、知覚の哲学者にとれば道徳的正や善は道徳的な感覚によって知覚されるということとまったく同じである。
 これが感情倫理説ないしはモラル・センス論である。感情倫理説は、たとえば、ハチソンのように、道徳的正や善を客観的なものとしてモラル・センスが知覚するという考え方をも含んでいるのであるが、つきつめれば、ヒュームの考えているように、一つの感情であり、傾向性であるところのモラル・センスを力説しているにすぎない。従って、道徳的正や善は知覚されるなにかであるといわれながらも、知覚そのものの現象性が重視されてくると、モラル・センスとは道徳的正や善を認識する能力であるといわれるものよりも、それらの現象を感覚的事実として単に説明する機能でしかないのである。
 ヒュームが「道徳的区別はモラル・センスから導出される」
(五)というとき、それの意味しているものは、道徳的正がなんであるかではなく、道徳的正が人々に賞賛される、こまごまとした諸原理の説明であり、それに基づく人間本性としての情念の有効性の強調であったのである。しかしそれでもってわれわれは道徳生活が人間生活から区別されているといえないであろう。道徳的正や善がかかる具合にして、即ち感情や傾向性として説明されている限りにおいて、道徳生活をきわだたせることはできないのである。とはいえわれわれが知覚の哲学における倫理的思想の特徴をその情念的本性においてみる見方は極端であるといわれるかもしれない。なぜならばわれわれはいかに感情や傾向性に支配されているとはいえ、なんらかの目的をもって行為していると自覚しており、その限りでは選択をしているという観点を忘れてはいないからである。
 もしこの考えを認めるとするならば、われわれは知覚の哲学における倫理説は主観主義的であり相対主義的であるという風に結論を求めるのが一番よい評価であるといえるかもしれない。このことは、再三くりかえしているように、道徳的正や善はわれわれ自身の中の感じる心次第でどうにでもなるという点及び、道徳的行為においては何を選択するかよりも、それを選択する仕方に力点がおかれているという点をいいなおしているにすぎない。
 そこでわれわれは経験論における倫理が道徳現象論として展開する点を理解しなければならない。この観点からの考察において大切なことは主観主義的で相対主義的な、そして自然主義的な倫理観においてはいかなる現実的な効果が期待されるのか、という問題の追求である。かかる倫理観においては、道徳が純粋に個人の問題であり個人の関心事であるとされているのはいわれるまでもないであろう。道徳的関係や道徳的法則が仮に認められるとしてもそこには個人の関心がむけられていなければ何の意味をも持たず、従ってないに等しいのである。
 してみるとここに人間のもつ目的なるものがあきらかにされてくるのである。即ち道徳は感じる心の働きによってなりたつ。それ故に道徳的理想を実現するには感じる心の存在を完全なものにするということが必要とされなければならない、と。
 これは何を意味しているのであろうか。感じる心の完成自体が問題になってくるのであるから、社会的な問題とされている責務のそれは二の次とされ、その結果、理想的個人への到達が人間の終極目的とされてくる、ということを意味している。とはいえその考え方においては理想的個人という理念が描かれているのであり、その実現のための様々な選択の必要性が説かれ、又選択すべき規範が要求されているのだから、かかる考え方をわれわれは非倫理的であるとよぶ何の権限ももたないのではないかと考えられてくる。
 一般にわれわれは道徳を個人道徳と考えても非難すべき何物ももたない。しかしここで注意されるべきは、道徳が感じる心の働きによって成立するという考えを基盤にすれば感じる心そのものへの迎合的態度を生みだす、心的弱さの存在であろう。この指摘は個人主義的倫理思想の背後に秘められている利己主義的傾向の肯定につながっている。この利己主義的傾向は道徳の問題に関していえば、個人としては完成された有徳的人間になることを志向しているので、自利の追求に没頭する経済人的エゴイストのもつ傾向と異なってくるようにみえるが、社会的視野ないしは全人的立場の考慮の欠如という意味において、ある種の危険性を有しているのである。
 それ故に個人道徳の賛美や個人主義的倫理思想への傾斜は大局的には避けられるべきである。道徳が個人の関心事に留まる限りにおいて、われわれがみつけようと努力するところの生きるべき課題はわれわれが自らの力によって理想的個人になるということである。いいかえれば理想的個人にとっては個人の努力の結晶として徳をえることが善なのであり、その場合、徳とは財産のように考えられている。しかしながら個人主義的倫理が意図する理想的個人ないしは有徳的人間がただ単にいくら集まったところで、われわれの住む社会において感じられる矛盾が解決されるものではない。現実に存在する社会的矛盾の解決は個人の特性の高貴さによって、あるいはきりはなされた個人の超人的な努力によって、なされるのではないことは、これまでの歴史が教えているところである。
 勿論かかる主張がなされる論拠として、理想的社会の実現が人間の課題として存在するという前提がなければならない。そこにおいて理想的社会が理想的個人をつくるという基本的な考えがあるために、個人主義的倫理思想とは根本的に相入れないものがあるといえるかもしれない。しかしわれわれはそれほど極端ではないにしても個人主義的倫理思想への傾斜を避けねばならないとする根拠を、それの「独りよがり」によるエゴイスティックな側面にみいだすからである。そして他の観点からいえば個人主義的倫理思想は、客観的には調和のそれ、屈従のそれとしか機能しえない点にわれわれがそれを避けるべき根拠があるといえるだろう。
 理想的個人とはわれわれにとっての理想であり、その実現は倫理的な課題でもある。しかし社会的視野からみられた場合、理想的個人は社会から隔絶された人間として賛美の対象になっているにすぎない。なるほど理想的個人は彼のすさまじい努力によって徳を身につけたと評価されるかもしれないが、所詮それは彼の感じる心を満足させてやったにすぎない。そして感じる心は自分だけ満足すればそれでよいのであって、その他の存在に対しては冷淡である。
 これが生物学的個人主義のもたらす一つの特徴である。とりわけかかる個人主義が知覚の哲学に基づいている場合には、われわれは自らの心的構造の十全的な働きを期待するために、観念的世界における個人をことさらにとりあげる傾向にある。そこにおいては人間の社会的性格よりも、生物学的性格が重視され、器官的優秀さが個人をうきだたせる一つの機能として認められ、むしろ、そのような器官がなんらの障害なく機能する状態をもって人間的に優れた点が列挙されうるとする傾向性さえみられるのである。
 勿論われわれはここで、知覚の哲学における倫理思想の特徴が端的に自利、自愛に基づく低次元の行動原理をもっている点に批判を求めているわけではない。いやしくもわれわれが倫理の問題を考える場合に、われわれは他人の存在を無視できないばかりか、他人との関係においてはじめて倫理の問題が語られることを知っている。
 いわゆるイギリス経験論の系譜をひく人達の共通の考えにおいても、自利、自愛を行動の原理としながらも、他人の利益を考慮する形でしか、倫理的見解が出されないのは周知の事実である。だが彼ら自身も告白するように、他人の利益を考慮するのは結局自利につながるからであり、その意味では、生物としての人間が知覚に映ずるままの観念に従ってなんらかの行為をする場合と本質的には変わっていないといえるかもしれない。かかる傾向について、それが人間本性の帰結するところであるといわれた場合、われわれはそれについてもはや反論できないであろう。即ち自利、自愛が人間の本性であるならば、いかなる洗練された知性といえども、かかる本性のもつ情念としての力にうちかつことは容易でないからである。とはいえわれわれはたとえば功利主義という倫理的にも明確な立場で考察する場合においても、経験論一般から導出される倫理思想は自然主義的であるというテーゼを忘れてはならないだろう。そしてそのことからわれわれは自然主義的な倫理思想がはたして人間におけるそれとして適切かどうかの吟味も忘れてはならないだろう。なぜならば自然主義的であるという言葉がきわめて非倫理的なそれであるからである。
 自然主義的であるとは、行為の面からみれば生物がその本性のままに動くの意であり、人間の行為にあてはめれば、人間が知覚に映ぜられる観念のままに働くの意である。生物に知覚現象がないという理由でわれわれは人間を生物から区別することはできないであろう。少なくともわれわれはそれでもって両者が倫理的に異なっている行為をなしているとはいえないだろう。知覚に映ぜられる観念のままに動くとは、現象する姿にとらわれるの意である。その現象は単に自然現象のみにとどまらないだろう。人間の場合に精神現象や社会現象を含めた一切の現象が含まれているのであり、それらがあたかも自然現象として機能しているのである。
 知覚の哲学にとればかかる諸現象は動かされざる事実であり、あらゆる判断の出発点である。しかしながらそれらの現象が可感的事実としての性格を強調する形でとらえられる、知覚の哲学においては、現象における本質が問題なのではなく、現象における推移が問題なのである。ここに可感的存在たる人間にとっては現象における本質をあきらかにすることよりも、現象における推移を跡づける作用が、ある種の可感的生の証しとして、価値をもつようになり、且つそれの遂行が生の主体性のあらわれであるとしてみなされるようになるのである。
 ここに倫理が介入する余地はないようにみえる。なぜならば道徳的正や善は現象における推移において偶然的にあらわれる可感的生の産物に他ならないからであり、従ってそれらは理念的対象ではなく、現実的な生の反応に対する特殊な呼び名にすぎないからである。
 さてわれわれは知覚の哲学における倫理の問題について一般的な見地から考察してきたが、この内容はジェイムズにおける倫理的思想の特徴をいいなおしたものに他ならないことに気づくであろう。すでに前にも述べたようにジェイムズが実際的な人間の道徳的生活における最も深い違いを「安易な気分easy-going mood」と「奮闘的気分strenuous mood」の間にある違いとして規定しているのをみる時、本節における前半の主張の意味がおのずと理解されてくるのではないだろうか。
 それではジェイムズにとって倫理的行為ないしは道徳的行為とは何であるか。ジェイムズは次のように答える。「道徳的行為は、最も単純で最も要素的な形態に還元した場合には……われわれが一つの観念をしっかりとつかむ注意の努力にある。」
(2)この言葉はジェイムズが常に考えている哲学的課題、即ち人生をいかに生き、そして世界をどう変えるかについての、個人としての心構えを見事にあらわしている。そしてこの言葉は単に心構えであるばかりか、道徳的行為の内容さえ有しているようにみえる。なぜならばここでは「一つの観念をしっかりとつかむ注意の努力」こそ道徳的行為をなりたたしめる必要条件であると強調されていながら、どのような観念をわれわれがつかむかについては重要視されておらず、従って、どのような観念であれ、それをつかむ際のわれわれの心の緊張状態をもたらすことが道徳の目的であるかのように主張されているからである。
 それはまさしく現象における推移を跡づける作用を維持するところに、道徳的にすぐれた点をみいだそうとする考えのあらわれである。とはいえ、それならばジェイムズにおいては善とか責務はどのように考えれているのか、なる疑問が生じてくる。同じ対象であっても思考者によって善ともなれば、悪にもなり、従ってより真実なる道徳的意味が与えられることはないのである。この考えは「大きいものであれ、小さいものであれ、事物の価値に関するわれわれの判断はその事物がわれわれにひきおこす感情に依存する」
(3)と考えるジェイムズにあっては当然の帰結であろう。
 しからばこの感情は一体どのようなものが価値あると認めるのであろうか。この結論は常識に問うまでもなくあきらかである。即ち感情をして生き生きと活動させてくれる対象であり、感情のもつ本性に適応したものであり、一般的に生の意志に迎合してくれる一切の対象である。善の本質はかかる生の要望を満たすことであり、責務はかかる要望を満たす権利の保証のようなものである。従って善や悪や責務は感情や欲求の対象以外のなにものでもないのである。
 しかしながらジェイムズにおいては様々な形で存在する諸現象のとらえ方は一層内在的なものであり、又主意主義的である。ジェイムズにおいては諸現象の存在根拠でさえそれらが現実的に欲求されていることに求められる。それ故に諸現象を注意の努力のもとに跡づけるとは、われわれの欲求がその欲求に応じてくれるところの諸現象にのみ注意をむけることなのである。いずれにしてもそこにおいて重要視されているのは、諸現象を欲する心的存在というものがなければならず、そして、かかる心的存在が現実的になにかを欲求しつつあるという事実なのである。そしてジェイムズがそこにおいて道徳的事実をみるというのは彼の有名な次の観点からなのである。
 「善悪の判断とお互いへの要望をもちあう、そのような心が存在する場合にはいつでも、その本質的な姿において倫理的世界がある。もし他のあらゆる事物や神々や人間や星空がこの宇宙から消滅し、そこに二つの愛する魂をもつ一つの岩だけが残されるなら、その岩は永遠と無限が停泊しうるいかなる世界同様全く道徳的な構造をもつであろう。その岩の住人達は死ぬであろうが故に、それは悲劇的な構造であろう。しかし彼らが生きている間は、その宇宙には真に善いものと悪いものがあるであろうし、責務や要求や期待があるであろう。そして服従や拒絶や絶望があり、悔恨や再びくる調和への渇望や調和が回復されるときの良心の内面的平和があるだろう。要するに一つの道徳的生活があり、その活動的な力や小説の主人公や女主人公が与えられうるような相互への関心の激しさ以外のいかなる制限ももたないだろう。……この地球に住むわれわれも、可視的事実に関する限り、まさにそのような岩の住人のようなものである。」
(4)
 道徳がなんらかの判断と欲求をもつ心的存在間の関係の中に成立するという考えはジェイムズにおいても認められている。だがジェイムズのいうように、言葉上、善いものないしは悪いものをいってみたところで、又責務や要求や期待を認めたところで、それらは所詮個人の好みによって選別されているにすぎないのであるし、従ってそれらは現象する善であり、現象する悪であり、あるいは生の反応としての特殊なあらわれにすぎないのである。その意味ではわれわれはジェイムズが道徳的生活を口にする時、それは人間における道徳的生活を意味しているのではなく、あたかも単純な反応器官をもつ生物における道徳的生活を意味しているかの如き錯覚をうける。
 勿論ジェイムズは「実在の倫理的諸関係は純粋に人間的な世界において存在する」(5)と信じているわけであるから、この錯覚はまさに錯覚として正当に位置しているのであろう。してみるとジェイムズのどこに問題があるのであろうか。ジェイムズは「人間」についてあまりにも心理学的、生理学的、生物学的に考えていたのではあるまいか。ジェイムズは人間についてその他のカテゴリーのもとで考察する視野の広さをもっていなかった。それ故に人間と他の生物との区別をする時に、その質的な差異性に着目して区別する方法をとらずに、自然機能の豊饒さの量的差異性でもって区別する方法をとろうとしていた。即ちジェイムズは人間が他の生物以上に、多くの自然機能をもっているという事実によって区別されていると考えていたのである。
 人間が心理学的にも、生理学的にも、他の生物以上により複雑なメカニズムの所有者であるということは、確かに、高級な神経系統をもち、多様な情緒的反応をし、個体的にも進化しているといわれる人間存在を記述するものではある。しかしそれでもってはたして人間が十分に説明せられているものであろうか。周知の如く、ジェイムズはわれわれの心的生活の意義をダーウィンやスペンサー以上に、その働きの能動性においてみようとしている。そしてそこから人間は単にその心をして忠実に外界を模写せしめるだけの存在ではなく、あらゆる情操、あらゆる美的衝動、あらゆる宗教的情緒、人格的感動をもち、純粋の認識的判断ばかりではなく、多数の情緒的、理念的判断をなす存在であり、又関心と選択をもつ高尚な存在であり、それ故に自然に挑戦しうる唯一の存在、自由的存在である、という諸点をジェイムズが力説している。
 その意味ではこれまで論述されてきた多大の内容はそれを論証するために働いてきたといえるであろう。しかし今それと相反する主張がなされる時、われわれ自身も又あまりにも狭い視野のもとにジェイムズをみてきたことに気づかねばならないだろう。即ちジェイムズにとっては心理学的人間ないしは生理学的人間ないしは生物学的人間が「人間」を意味するすべてなのであって、その他の特性(しかも人間を規定する本質的なものとされる。)については全く無視されている、という点に気づかねばならない。
 従ってわれわれはジェイムズの道徳的事実の考えの考察においてあきらかにしたように、ジェイムズ経験論は彼のもつ哲学的視野の狭さによって、人間の問題を人間の心理その他それに類するものの問題にすりかえる危険性を多分にもっている。経験をありのままにみ、経験に徹するとは彼なりの学的態度のあらわれであるが、それは情緒的豊饒さと心理的現象的深みをもたらすが、哲学的にはただ一つのこと、即ち人間のすぐれた特性(たとえば本当の意味での倫理性)を人間の生の問題に還元してとらえなおす考え方をあらわしている。そのことからわれわれはジェイムズが知性よりも情意が先行するという主知主義を強調する時、この強調の実質が実は自然的機能としての選択機能の働きの重視である点に気づかねばならず、その結果かかる選択機能が人間の独自性と無限の可能性を保証していると考えてはならないだろう。
 なぜならば、ジェイムズの知覚のとりあつかい方から判断して、ジェイムズにとって「あるがままの事実」という名によってそこに現象として存在するものは、その現象の内在的性格の権威にかけても、認められなければならなかったし、そのことから結果として、事実をありのままにみるという名のもとに、単なる可感的な現実との一体化ないしは現実との調和化が主知主義のこの上もなき成果として評価されてしまうからである。
 ジェイムズにおけるこの危険な側面は知覚の哲学における欠陥の帰結であるとみなされるであろう。知覚はたしかに事実についての知識である。そしてわれわれは知覚においてその事実を直接に現存する外的実在性としてうけとるのである。しかしながら知覚はあるがままの事実とみえるがままの事実との区別をすることができない。それ故にみえるがままの事実即ち可感的事実をもってあるがままの事実であると思いこむ認識上の限界性をもっている。外的実在性とは単に知覚現象にのみあるのではない。外的実在性が知覚現象にあるのならば、それは主観的実在性といわれるべきであり、単にある観念がしっかりと構成され、あるいは信念によって確かめられているにすぎない。
 ここでわれわれに要求されているのは客観的実在性といわれるべき対象であり、われわれがその対象にある客観的法則性をつかむことではなかろうか。外的実在性が心的存在に対して外的なものとしてあるならば、われわれはたしかに知覚を介してそれに触れることはできるだろうが、それの本質をつかむことはできないだろう。あるがままの事実をうけとるとは外的実在性の本質ないしは法則性をも理解するということ、即ち客観的実在性を理解することと同義でなければならず、それがためにいかなる知覚の哲学といえども単なる知覚現象を唯一の手づるにしているのであってはいけないのであって、それ故に知覚の本質をも解明せねばならないのである。
 ジェイムズは知覚の本質をつかむことが知覚の抽象的性格をつくりあげることだと思い誤っていた。彼の反主知主義的傾向は知覚の抽象性を否定するあまり、知覚の本質をみる態度さえ奪ってしまっている。それ故ジェイムズ経験論は「はいずりまわる経験論」におちいってしまったのである。それに対し、われわれは知覚の本質をつかみ、知覚の対象が求める客観的実在性、法則性をつかみとるのに、必ずしもジェイムズのいう知性をのみ必要とすると考えなくてもよいのではないだろうか。なぜならば、われわれの精神はそれほど枯渇した自然の賜物ではないからである。

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